水木楊「東大法学部」(新潮新書)を読んだ。
実は、昨日は終日人間ドックで病院にいた。待ち時間がかなりあると思い、事務所の本棚の本を1冊持っていった。いや~、待ちが長くて、結果、読了。
毎年、3月になるとテレビで東大合格発表の模様が映し出され、季節の風物詩となっているけど、皆さんの回りの東大卒の方はどんな風ですか?自分の今まで出会った、あるいはお付き合いのある東大または法学部卒の方々は皆、頭は当然良く、それをひけらかす風もなく、性格も良い人が多い。確かにあまりおしゃれな人はいないけど。何だ!と反感を持つようなイヤミな東大君にはあまり会っていない。
この本は東京大学ではなくて、「東大法学部」というタイトルのとおり、東大の中の東大、官吏養成機関としての東京大学の生い立ちから、変遷、人材の供給先たる霞ヶ関の変質、そして最後にはエリート論を論じている。
著者は、明治政府の国策として政官財各界に幹部候補生を供給してきた東大法学部が国家公務員と司法試験に向けた予備校であり、巨大な公共投資であったと述べている。事実、東大には毎年、国や自治体から1000億円を超える補助金(平成16年)が給付され、学校財政の7割が税である。
本書では、東大法学部と表裏の関係にある霞ヶ関の官僚の影響力がどのようであったかを4つの時代区分で論じている。戦後、圧倒的に官僚が力を持ち政策を決めていった「官僚たちの夏」の時代から、徐々に調整を主とする役割となり影響力が減じていき、バブル期のモラル低下を経て、現在は小さな政府の流れの中で、若手官僚や現役学生達にとっても官が魅力ある場で無くなったと言っている。
今の東大生は官僚志向より司法試験志向が強いようだ。また、各地の進学校では東大ではなく、医学部志向が強まっている。時代が変わって、官吏養成所たる東大法学部の役割は終わったというのが著者の主張。
そして、戦前から東大に入ることで貧しい若者が社会でリーダーとして活躍できる、そんな能力により階層の階段を上る梯子の役割を果たしていたが、状況が大きくかわり、裕福な家庭の東大生に国費をここまでそそぎ込む必要があるのか、と疑問を呈している(東大進学者の家庭の平均年収が1200万、首都圏の中高一貫校の出身者割合が高い)。
最後は、「そこに高い山があるから登る」=自分は試験能力が高く偏差値が高いから東大を志望したという東大生の現状から、エリート論を展開するが、エリートとして必要な志や公のために何かをするという意識が希薄で、市場での成功(金銭至上主義)志向が増えてきていると警鐘を鳴らす。
官僚の役割と力の変遷を論じた部分は、政と官のパワーバランス史としてお勉強ともなり納得のいくものだった。後半、戦前との比較での教育論、エリート論となとなっているのだがサラッとしたさわり程度という感じだ。
今、格差社会本が多数出ているが、大体が次のような論調だ。正社員とフリーター、ニート、結婚できる若者と結婚できない若者、階層の固定化が起きている。そしてこの階層固定化は教育機会によって進展している。経済力のある家庭でないと塾や私立中高一貫校から一流大学へと子供を進学させることができず、裕福な家庭から良い学校、正社員へ、貧しい家庭は上の学校へも行けずフリーター化するというループができつつあると、教育論へと落とし込まれていく。
本書も最終的には教育のありかたと社会のあり方に触れている。ちょっと薄味であるが。東京大学の変遷を知るには良い。
講 評 ☆ 2つ半
検査結果は血液も尿も全て基準値内。レントゲンも心電図も異常なしで至って健康。しかし、病院に1日いて血を採られたりしていると病人のような気分にってしまう。でも、結果が良いと不思議と元気になるものだ。
元気ハツラツ。今日から、またバリバリがんばります。
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